チェック:栄四郎先生
入力者:秋山誠輝
昭和42年11月1日 朝の御理解
例えば、子供を育てさして頂くでも、二人か三人までぐらいなら、( ? )、こう
( ? )まあ出来る、まあそれでいても、実際親の目を放さないというわけにはいけないのですから、実際に(?)ない、けれどもまあ、あ~、二人か三人なら、あればいやばつきついといて、え~、育てるという御用が出来るのだけども、それが、七人にも八人にもなり、ね、子供に、数増えてまいりますと、なかなか親の目も届かない、から結局教育の方もおろそかになる、(?)なる、というわけでございますけれどね、そこで、もうとにかく親の目が届かんところでどういうことしておるかは分からん、( ? )、そこで、まあ神様にお縋りするより他にはないというようなこと、神様にお願いしとかなければ仕方がない、神様にその、お願いをして、神様にお任せをするということは、どういうことかと、ならはたしてその、例えば一人息子でも一人娘でも、それこそ親が、まぁ大事に育てる、いかにも徹底した教育をつけていきましてもです、ならはたしてそれが、健全な育て方かというと、そうでない場合もある、返って甘えたり、返って、え~困った方向へ向かっているということは、沢山それでは、ね、ですから本当、厳密に言うと、なかなか自分の考えとか力で、自分の( ? )のところにおいて、そして教育をするということはなかなか不可能である、まあ言うならば、放任主義の似た、主義をとらしてもろうて、その中に、神様のお守りを頂き、御守ごうを頂くより他にはない、なにしろ、その、段々分かってくる時に、本当にあの、二人か三人かを、例えば、子供を沢山育てるという事は、あ~、あ~、とても難しいというので、まあ( ? )なんかまでやって、そして、まあ、適当な子供をもうけて、それを、親の(?)限り教育しようと、いかにも、それは合理的でもありゃぁ、理想的であるようであるけれども、はたしてそれで本当に良い子が育つだろうかと、それはどこまでも人間の考えであり、人間の浅はか~な知恵である、もう本当に神様の目からご覧になったら馬鹿に(?)かと思う、そういう考え方をね、信心さして頂く者は、そういうところをです、人力の限りということを、例えばうんなら、「儲けにはおいなりて」ね、仕事でも、自分の努力を尽してやっておる間は、もうそれでいかにも、良いようであるけれども、それだけでは繁盛とは言えない、ならそこで人を雇う、一人も使う、出張場を設ける、というように、次々いよいよその、まあ社長なら社長の目の届かない、ね、それはあらゆる組織を作り、あらゆる機構の中に、それをなして立派にしても、さあ自分の思うようにはいかん、そこでお任せするより他にはない、だたそれを放任主義ではなくて、そこんところを、を私は思うのに、そういうことになったから、もう手が、手におえないから、お任せするのではなくてね、もう本当に私がしたいとこを尽くしてやっておるそこんところから、言わば人力の限りを持ってやっておるその人力の、て思うておるその中にも、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという、一人の息子を育てる一人の娘を育てるというても、私が、かたん中にはめたようにして育てていてもです、それがはたして幸せということではないのだ、それが立派ということはない、分からないのだ、だからそれとても神様のおかげを頂かなければという、ところからですね、いかなければならないと、もう七人も八人にも子供がなったから、もう自分の目には届かない。
昨日、夕べ、御祈念が終わってからでした、久富繁夫さんが、「今日はあの、(?)が、( ? )取り上げ、取り上げが始まったとか、ところが(?)確かに(?)せんかった」っち言われてですね、「( ? )いきますもんかい」っち、「いいえ確かに久富先生の自転車に乗ってから、誰かそのなにかを(?)なさる」っち私、「あの椛目の栄四郎さんじゃないか」っち、それ言いよる内にもう、向こうの方へ行ってしもうた、「確かに栄四郎さんじゃったが、何の用で来なさったじゃろうか」っち言うて内々話しよりましたっっち、目が届かん何をしておるのかもう、親も知らん、使いよったわけじゃないから、ね、そこでまあ何にもなしに帰ってきて、何にもない顔をしておるから、あ~、何にもなかったようにあるけれどもです、もしそこで事故でもあっておったら、さあ大変だったろうとこういうわけなんですよね、してから、後で聞いてみたら、栄四郎じゃったかっち言うんですよ、ね、もう親の目に届かない所で、その、色々、やってるんですから、本当に、神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのですが、そこんところを私は分からしてもらうことが、悟ることだと思う、(?)もう、何十人か二十人かの信者さん達には、もう誰誰が何をしてどうしておるかお次ぎがあるからちゃ~ん分かるわけです、ところがもう本当に、もう私が、全然気が付かない所で、もうこれだけ沢山のご信者さんになると、誰がどこで何をしておるやら分からない、ここ二・三日ある方が、まあ言うなら行方不明になってるわけ、お金を沢山持って行っておらんのです、前後の事情から、もう大変その、まあ心配になることなんです、ま神様のおかげを頂いて、神様の御守ゴウのにあっ、の中にあることだからと、ま言うて安心をさせておるけれども、ならはたしてその(?)さんが、安心しきっておったかとは、限らない、分からない、これは親先生にお願いしておるからと、いうだけのことであります、私とても、手が届かんのである。
昨日東京から、あ~、持って行っておる金を銀行あてに、送金してきたという通帳を銀行から、だから東京に行っておるということが分かっただけであってですね、もう本人が(?)どこにおるか分からん、( ? )、まあ東京の、その金を使い(?)といったような、最悪な場合を、その、連想いたしますからね、色々な事がありますと、金を使いはたして、自殺でもしておらんじゃろうかと、まあ例えばそういう事を考える、ね、例えばまあ無事であったことが分かり、お金もそういう、(?)のものではなかった、何か事情があっての事であったということが、段々まあ明白になってきたわけでございますけれども、ね、もう神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのです、ね、毎日、(?)の会社に勤めておる、なら会社にきや勤めては、一生懸命働いてござる、ならそのことを、は、例えば人力を持って、感じられるのですけれども、さあそこから一足先は足を伸ばすと、もう後の事は分からん、毎日平穏無事で行ったり来たりして勤めに行って帰って来ておるということでもです、その事がいかに神様のおかげを頂かなければ出来ん事か、ま頂いておることかということを、分からなければいけん、これだけのことを私が出来るということはないのだ、ね、二人三人の間は私が立派に子供は育てるけれども、七人も八人もなるともう親の目が届かない、そんなこっちゃぁないと、例えば一人の子だって神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんという事を分からしてもらわなければ、ね。
昨夜の御理解の中にも、市内に、いわゆる真の始皇帝という有名な、あ~まあ王様がおられました、その方は、自分の国の、周囲に、城力を築いた、それが有名な万事の頂上である、人間万事にあたるところの、その城を築いた、ね、そして、外敵を、(?)によって防ぎながらです、もう、このお国は、あ~、いつまでもただ栄えするだけだろう、(?)のねんがない、あれだけの城を私も実際に見てまいりましたが、なるほどこれだけの城築きゃぁ外敵は防ぎますわなぁ、ね、ところが、さあその城が出来上がったころには、打ちの砲丸が出来てきた、ね、いわゆる内丸である、そして結局その、頂上というものは、いわゆる無用の長物になったわけです、人間の知恵っていうものがね、力でするということがですね、いかにはかないものかということをですね、万事の頂上じゃなくても、さすがにいかんですばい、ね、そこを神の英知と申しますかね、神の知恵を持って、神様の働き、神、じん、人力ではない、もう神力、ね、神様の働き、神様のおかげによってなされたもの、神様のおかげで出来たもの、神様のおかげで生きて行くという、生き方こそがです、間違いのない生き方であるという事を、本気でお互いの(?)見極めにゃです、これを子供のために孫のためにと、よい言う親が、本当に常に灯を点すように、働きぬいて、残した物がです、もうこれだけの財産がありゃぁ、いついつまでも、しかもこれは、子供でも孫になっても、絶対というような、(?)その仕組みを作って、それを成しておったからというて、万事の頂上じゃないけれども、どこから(狂うor崩れ)ていくやら分からんのが、人間の考えであり、人間のすることなのである、ね、っとにここんところに一つ、本気で皆さんがですよ、お参りをさして頂いてお取り次ぎをしておかげを頂くといったような、そういう目先目先の、小~さい信心からですね、そういうところを本気で悟らしてもろうて、いよいよその無限の神力に繋がるところの、信心とは、おかげとはどういうことかということをです、はっきり一つ、頂いて、ね、そのことに精進する、ね、そのことを土台にして、奉仕をする、という生き方、あり方になりなさらなければです、信心頂いている値打ちがないです、ね、言わば、目先の(?)、子供の教育一つでもです、「はぁ自分がこういう風に、育って、こういう風に育って、育ってくれ」というて、祈り願いを持っておってもです、はたしてそうなるやらならんやら分からんのである、いや返って、もう、一から十まで親が、一つのカタンの中に、してしもうたから、小さい人間が出来上がってしまう、ね、なら自由奔走の、的な育て方ではなくてです、神様のおかげで育っているのではなく、人間が育てたというのは、もう実に、いわゆるこせこせとした、ね、細い人間が育つだけである、そういう育て方を、教育と思うておるようなことは、これ大間違いである、例えば、考えてごらんなさいもう、ほんに学校の先生達がそこんところを(?)いかんと思うんですよ、自分達の性根で行けって、(表もたえんです?)、これはもう私なら私の、小学校なら小学校時代に、「はぁこの人は」と、先生方の友達の、まあ職号しておった、願いをかけておった、これは立派、と言うとほど、不幸せになったり、亡くなったり、もうどういうわけや分からん、あんまり人の目につかなかったです、ぼんやりしておったような人達が、前のキュウケンであったらですね、返ってお役に立っておるという事実が、これは私だけじゃありますまい、皆さんでもそれを見てごらんなさい、「はぁあの人はシュウセンだった、あの人は頭良かった、あの人は(?)が良かったから、幸せになられるだろう」と言うておるけども、そうじゃないでしょうが、ね、それから考えたってですね、言わば、詰め込んだ教育とか、こういう一つの型を作ってその型の中にはめるというような教育はいかにも、お粗末であるか、つまらん事であるかということを本気で悟ってですね、というて無茶苦茶というのではなくてですたい、放任主義というのでじゃなくてですたい、もうとにかく自分の手になどおえんのだから、自分の息子でも、例えば放蕩してから自分の親に手におえんというて、初めて神様に、お願いするのだというのじゃなくてですたい、いかに親孝行であり、真面目でるようであっても、ね、ここから、「なら家の子供だけお願いせんでもよか」といったようなのではなくてですたい、ね、例え一人息子であっても一人娘であっても、やはり神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、( ? )ならんでもええ( ? )だから、というてもです、ね、それでもやはり神様のおかげを、(?)こと借ることから、お願いをさしてもらい、お届けをさして頂いて、おかげを頂いて行かなければ実を言うたら立ち行かんのだということをです、本気で分からして頂いて、もうこれだけは自分の手に入っとるから、これだけは自信があるからという、その自信の脆さというものをです、本気で悟らしてもろうて、ね、自信はなくても、言わば、信念が、入ってくる、神様のおかげを頂けば、おかげは受けられんという、私はつまらんのだけれども、ね、そこんところをです、私は無限の神力に繋がっていくということのための信心を、ならはたしてどういうような信心をさして頂いたら良いのか、朝晩こうやって通って信心の稽古をさして頂いておるから、そこんところを、体得さして頂くための、合楽通いでなからなければいけないということ、ね、そこんところを、最近私がね、いわゆる、ね、天の心を心として、地の心を心としてこう、別々にこう最近申しておりますですね、それをまたひっくるめて天地の心を心としてということになると、また大変変ってくる、ね、まず天の心を心として、地の心を心として、言うなら、天の、天地の心を心として、言うなら神様の心を心として頂けていく信心、ね、それから、私は、限りのない、神恩も、感得出来る、だから限り、限りのない、神様のおめっ、お恵みもまた、受けて行くことが出来る、ね、そこから、一切のものが育って行くという、そこから一切のおかげが頂けていくという、難しい事になってから神様のおかげを頂かなければならん、といったようなのでは、まあ言うたら手後れだと、万事当たり前、自分で出来ると思うておるような事柄の中からです、神様のおかげを本当に悟ということがです、天の心を心とし、地の心を心とさして頂くというとこから、それが分かってくるのである、ね。
本当にその、お互いがですね、もう、いかに万事の頂上をです、築き上げることだけに一生懸命になっておる人がおる、ね、もうそれに一生かけておる人がある、それが生きがいとさえなっておる人がある、もうこんっなに馬鹿らしいことはない、そして、気が付いた時には、もう自分は、(終着駅?)の方へ近づいておる、なら良し(?)じゃなくてもです、もうその(?)は役に立たなくなっておる、いやそれは、むしろ、(?)、( ? )の障害になっておる、もう実に、その、つまらん話しなのである、あたら人生をですね、そういうことで終わってはならん、おかげを頂いて、御神縁を受けて、ここで信心の稽古をさして頂くのであるから、ね、そこんところを誰よりも早く分からして頂いたということを有り難いと思わしてもらう信心、ね。
みなさん、もう信心の時間ぐらいもう問題じゃないのですよ、稽古の時間ぐらい問題じゃないのですよ、時( ? )、これじゃつまらんのです。
二・三日も、久富正義さんがここで勉強するんです、これで朝の御祈念にお参りさせて頂くようになり、おかげを頂いて、どうにもその先生の御祈念が、もう初めの間は長すぎて長すぎて、これはいつまっでん御祈念せんならんじゃろうか、まあそれが、まっ言うならば、惜しいのです時間が、ね、それはそれで大変仕事しとりますが、「ところが先生最近はです、なるほど、あの御祈念の時間が長いということがようやく分かってまいりました」と、そして「あの御祈念の時間が最近は短いように感じるようになりました」と言う、祈らなければならないことの、あまりにも多いことに、もう驚いてしまっておる、改めて、願わなければならないことのあまりにも多いことに、もう驚いてしまっておる、ね、今回それをです、願うことだけじゃないんです、ね、お詫びを申せなければならんことが限りなくあることにまた驚くのである、ね、お詫びを申し上げなければならないことのおまりにも多いのに驚くのである、とても時間が足りない、とても一時間や一時間半ぐらいで、とても出来ることではない、そこんところをです、ね、正義さんは分かっていきよる、それが有り難いと、ね、本当に例えば長い長い、もう実を言うたら私にとって長いことはないのです、ね、そういう中にです、この神様と交流していく、交流が出来るからこそです、神様の心を心としてこちらへ受けて行くことが出来る、神様の心を心として行くことが、いつの間にか出けていく、ね、神様との交流が始まる、そこには、願いもお礼もお詫びも、もう本当に一緒になってです、それがなされていく、もうそのへんのところが、信心の妙と私は思います、ね、本当に一時間座とって一時間なんっ、時間はもう感じないのである、ね、そういうようなところから一つ信心の稽古をさしてもらって、神様の心を心としてこちらに受け入れられれる、天の心を心として地の心を心として、おかげの頂いていけれる、信心を頂かしてもらい、ね、このっ、このくらいな事と言うことの中にでもです、神様のおかげを頂かなければ出来行かんのであるというところからです、言わば、私は育っていくことがです、もう限りがない、例えが子供が十人出来てもです、ね、神様にお任せして、お育てをさして頂く、ただその御用を私共がさして頂いておるというだけの考え方が出けてくるようになった時が、私は信心の本当なもんじゃなかろうかとこう思うですね、特に一つ、あの子供の教育といったようなことがですよね、二人だから三人だから、自分の思うように育てようなんて、そういう思い方がすでに間違いなのだ、それは御無礼なんだ、言うたら、「お前がそうやって、なら育ててみりゃよか」って神様がおっしゃったらもうそれっきりなんだ、ね、だからこせこせ子供に言うちゃつまらんって、自分の考えで「こうせろああせろ」と、「さあ勉強せろ」勉強せろばっかり言うたっちゃ、つまらんのじゃくて、返って御無礼なるって、神様が自由にされて下さろうとしておるのを、邪魔するようなことになる、ね、そういうなところも、分かって行きゃなならんと思うですね。
どうぞ。